折りたたむ
美呆の童話には、食べることについての記述があります。
「彼らは言っていたよ。世界が悲しいのは、みんなが痛みのあるものを食べているからだと」
「痛みがあるとき、それが本当に必要だったのか、たましいがたずねるそうなんだ」
現代の日本に生きる人は、毎日自分たちが食べているものが、生き物であり、
命であるということを果たして確かに認識できているでしょうか。
実はそのことはほとんどできない状況にあります。
それというのは、ほとんどの現代人は、作物や家畜を育てることをしていないからです。
食べるものと食べられるものの距離が離れてしまっていて、お金がその橋渡しとなっています。
なので、それが痛みを持つ命であるということが分からなくなってきているのです。
また、家畜に限って言うなら、1960年代以前に比べ現在は、家畜の飼育は過度の工場生産であり、
動物を命あるものとして扱っていない状況にあります。
それはとてつもなく過酷で残酷な有様です。屠蓄だけでなく、飼育さえもがひどい状況です。
その状況があまりにひどいためか、テレビなどのメディアでは決してその内容が明かされることがありません。
現在はテレビ社会であり、テレビで言われないことは、一般にも伝わらないし、知られません。
そのことが深く影響して、食べものになった命が、どのようにしてここまでやってきているのか知られていません。
果たして、現代の家畜の状況を見て、子供たちは、大人たちはどう思うでしょうか。
どう思うかは自由なのですが、非常に大切な問題にもかかわらず、それを知らされていないことは問題だと思います。
一言に「食といのちのつながり」「食の背景」「飼育の状況」と言ってみても、それらは、環境問題と深く関わっており、今の子どもが未来に生きていくことができないくらいの危機的状況を作り出しています。
「子どもが生まれたから、菜食になった」という人もたくさんいます。しかしその意味が分かる人がどれくらいいるでしょう。
たとえば、家畜の飼料はつながりのなかで多くの問題を含んでいます。
遺伝子組み換えの問題、農薬・化学肥料による環境汚染の問題、飢餓の問題、アレルギー疾患の問題、
栽培に使用されるエネルギーの問題、倫理的な問題、精神への影響、身体への負担・・・。
政治的なことまで話を深めますと、穀物や石油を牛耳ろうとする動きによって戦争が起こるので、
戦争や平和ということを考えた場合にも、家畜の飼料は大変重要な位置を占めていることになります。
そして戦争こそが最大の環境破壊なのです。
多くの問題があるにも関わらず、社会はどうして「食といのちのつながり」を明らかにしないのでしょう。
私には、底流で黒くドロドロしたものがあるように思えて仕方ありません。
大きなことを言ってしまうなら、これは、人類がこの先存続できるかできないかを左右する問題であり、
今後の人類の大きな課題でもあるとさえ思われるのです。
美呆展ではこの「食といのちのつながり」を研究者が発信するのではなく、板橋区の店舗や作家が、
自ら考え学んだことを発信し、美をもって形にします。
このことは小さい動きかもしれません。
しかし、都市部に住み、研究者でない一般の町の人たちによって、こうした動きがあることは、
実はとても現実的で、人から人へ、知識としてだけでなく、大切な想いを伝えてゆくことができるのではないかと思っています。
美呆展では、情報やアートの発信だけではなく、
未来を想うことのなかで自然と、人と人、地域のつながりができていくのではないかと思われます。
またそれによって、人と人の距離が近づき、本当に目を向けるべき問題に向かうことができるのではないかと私は思っています。
美呆展におけるアートの意義
「芸術は本当に現実に立脚するものである」
とは小川未明の言葉ですが、美呆展においてアートのもつ意義は大変深いものがあると思います。
それは決して作品にメッセージ性があるということではありません。
人間という存在は、魂から幸福であるとき美を体現します。
また私たちの精神は、自他の損得を越えるとき、幸福を感じ、自然と美を放ちます。
(こうした幸福は副産物であり、直接求めることができません)
芸術は、そうした精神が具体化したものです。
美を表し、美を感ずるというのは、自他の関係を幸福に変えるものです。
食といのちのつながりにおいて、いのちが何たるかということにおいて、
その認識と表現は芸術において強く発揮されるものと思います。
もし、アートの真髄に触れることができるならば、いのちのつながり(いのちそのもの)が認識できるはずです。
いのちの認識こそが、社会のあらゆる問題の核だと私は確信しています。
ですから、どんなに環境や食についての知識を集めてみても、いのちそのものを認識できなければ、
自他の損得を越える行動ができなければ、たいした意味はないと思えるのです。
古今の宗教的偉人たち、芸術家たちは、自らの体験で同じ結論に達しています。
それは「見るものが、見られるものになる」ということであり、自他が一つになるということです。
このことは量子力学などの科学の世界でも同じことが言われていて、
それは観察者が対象を認識するとき、観察しようとする自己が存在する限り、対象を完全には認識できず、
自己が消えるときにはじめて、対象を認識できるというもので、それは自他が一つになるということです。
美呆の童話においても、サナイという登場人物が、畑の中で草木の声を聴き、
なにか不思議な温かな声を聴くという場面があります。
それはいのちの本体ともいうべき存在の声であり、それこそが自他が一つになるということを表しているのではないかと思います。
食といのちのつながりというテーマは、現代において、
古来からの究極のテーマを内包しつつ、アートとしての深い意義を果たすべく大きなテーマであると感じます。
ぜひとも美呆展が芸術の花咲く本当に美しい展覧会であることを願いつつ、また私もその意志で臨みたいと思っています。
稲尾教彦 (美呆の童話の作者)